須賀秀文 6/28

この哲学者は結局直感でスパッとわかってしまって、論理はあとからということが出発点のようです。禅宗と似ているという指摘があるのも道理です。本人は実は論理が嫌いで面倒くさがりだったのかもしれません。

しかし、「純粋経験」を核にしたさまざまな考察は、私が言うのも何ですが、真の才能を感じさせるセンスのいい思想家だと思います。哲学は「お勉強」だけではどうにもならない分野なので、こうしたセンスがある人が取り組んでくれなければ始まらない気がします。

それにしても著者の感受性と論理展開の特徴ないしは癖が、西洋の哲学者と違って、そこはかとなく身近な感じがするのが不思議です。日本人が哲学をするのなら、必ず西田を通らなければならないというようなことが言われるのもわかります。私の師匠の本にもそう書いてあったので、いつも頭の片隅にはありましたが、やはりこうして読んでみるとまったくその通りだと実感しました。

ホワイトヘッドの『過程と実在』を中心に、ホワイトヘッド哲学を概観する。哲学史の中で、最も難しいともいえる『過程と実在』を少しずつ読み解いていく。最近出た優れた研究書『生成と場所 ホワイトヘッド哲学研究』(荒川善廣著 行路社)を手がかりにしたい。

ホワイトヘッドは、20世紀最大の形而上学者である。周知のように最初は、数学者として出発した彼は、バートランド・ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ』で、記号論理学の体系を構築した。

その後自然科学の基礎付けをおこない、60歳過ぎて、イギリスからアメリカのハーヴァード大学にまねかれ、おそるべき空前絶後の形而上学者となる。

その主著『過程と実在』(Process and Reality)は、一切具体的説明を排した抽象的思弁で貫かれた哲学史上最も難解な哲学書である。

ホワイトヘッドは、この本のなかで何をしたかというと、概念的な図式を作って、それによって宇宙のあらゆる現象を説明し尽くそうとしたのだ。そのなかで、

もっとも基本となる概念が「現実存在」(actual entity)という概念である。

この「現実存在」という概念は、この宇宙の構成要素であり、しかもあらゆる存在を構成している。しかもホワイトヘッドは、物質も精神もこの「現実存在」によって、説明しようとする。物質の構成要素である原子も、それによってできているひとりの人間も、その人間が外界を知覚するその知覚も、そして人間や動物といった存在の共同体もすべて、「現実存在」という概念によって説明される。もちろん「現実存在」は、互いに複雑に関係しあう。

その関係の仕方をホワイトヘッドは、「抱握」(prehension)という概念で表現する。

また「現実存在」の背後には、「永遠的客体」が控えている。

まあ、アリストテレスの「形相」みたいなもんですね。